
「借りられる」と「借りてよい」は、同じではない。
住宅ローンの相談で、購入者が安心材料として語る言葉がある。
「銀行が貸してくれるから大丈夫ですよね。」
私は、この言葉に、少し危うさを感じることがある。
なぜなら、
銀行が貸すことと、安全な借入であることは、必ずしも同じではないからだ。
ここは重要だ。
銀行審査が通る。
融資承認が出る。
それは一つの評価ではある。
だが、それをもって「返済は安全」と考えるのは、少し違う。
私はそう思っている。
なぜなら、銀行は人生設計を審査しているわけではないからだ。
返済可能性を見る。
担保価値を見る。
属性を見る。
だが、
そのローンが、あなたの人生にとって適正か。
そこまで保証しているわけではない。
ここは混同されやすい。
私は時に思う。
「信用」という言葉は、少し美化されすぎている。
住宅ローンにおける信用とは、
人格評価ではない。
多くは返済能力評価であり、担保評価でもある。
かなり現実的なものだ。
だから私は、
信用で借りる
というより、
条件が合うから借りられる
と理解した方がよいと思っている。
冷静でいられるからだ。
ここで危ういのは、
借りられる額を、借りてよい額と錯覚すること。
これは本当にある。
そして危ない。
私は、不動産実務でしばしば感じる。
銀行が認める上限は、
生活者にとっての安全限界とは違う。
ここは別物だ。
重要だ。
例えば、教育費。
介護。
子どもの進学。
親の支援。
病気。
人生には、融資審査に乗り切らない支出がある。
現実はこちらだ。
だから私は、
銀行が貸せる額ではなく、
自分が守り切れる額
で考えるべきだと思っている。
ここに思想がある。
また私は、住宅ローン審査が通ること自体を、一種の「選ばれた感覚」にしてしまう心理も、少し怖いと思う。
承認されると、人は強気になる。
予算を上げる。
物件価格を上げる。
欲望が滑る。
これはある。
だが、その時こそ冷静でありたい。
私はそう思う。
信用とは、万能の盾ではない。
むしろ時に、
借りすぎを正当化してしまう幻想にもなりうる。
強い言葉だが、そう感じることがある。
また、信用情報という仕組みそのものにも、私は時に違和感を持つ。
過去の履歴は見る。
だが未来の回復可能性は見えにくい。
ここに制度の限界もある。
日本は、過去を見る。
私は、どこかそう感じる。
これは次編にもつながるテーマだ。
私は購入者に、一つだけ伝えたい。
銀行が貸してくれることを、安心材料の中心に置かないこと。
安心の根拠は、
借入承認ではなく、
返済耐性に置くべきだ。
私はそう思う。
住宅ローンは、承認されたから安全なのではない。
安全に設計した時に、安全になる。
当たり前のようで、深い違いだ。
そしてこの編で言いたいことは、一つ。
「借りられる」と「借りてよい」は、同じではない。
この区別が、住宅ローンではとても重要なのだと思っている。