
住宅ローンは、人生を拘束する契約であってはならない。
住宅ローンは、「夢を叶える仕組み」と語られることが多い。
私は、それだけでは語れないと思っている。
住宅ローンとは、人生最大級の金融契約である。
だからこそ、その設計思想は、本来もっと問われてよい。
私は以前から、住宅ローンはノンリコースローンであるべきではないか、と考えている。
ノンリコース。
聞き慣れない言葉かもしれない。
だが考え方は単純だ。
担保である不動産を差し出せば、債務関係はそこで終了する。
借り手は、それ以上、人生全体を債務で拘束されない。
私は、この発想には合理があると思っている。
なぜなら住宅取得の失敗が、人生全体の失敗にまで拡張されるべきではないからだ。
ここは重要だ。
日本では、住宅ローンはしばしば「絶対返すもの」として語られる。
もちろん契約だから、その原則は理解する。
だが私は、別の問いも必要だと思っている。
担保を取っている金融は、どこまで借り手に追及すべきなのか。
これは制度論でもある。
深いテーマだ。
私は、住宅ローンで一度つまずいた人が、一生かけても抜け出せない構造には、どこか違和感がある。
住宅取得は生活の基盤をつくるための行為であって、人生を縛るための契約であってほしくない。
そう思う。
ここで誤解してほしくないのは、
ノンリコースとは、無責任を勧める思想ではないということ。
そうではない。
むしろ金融におけるリスク分担の考え方だ。
貸し手もリスクを見る。
借り手も負う。
双方で負う。
それが本来、金融ではないか。
私はそう考えている。
現実には、日本の住宅ローン実務はそう簡単ではない。
承知している。
制度としてすぐ実現する話ではない。
だが、提言として考える価値はある。
米国では州によって、こうした発想は珍しくないとも言われる。
未来の返済能力や資産価値の見方にも、思想の違いがある。
日本は過去を見る。
米国は未来を見る。
乱暴に単純化するつもりはないが、そうした違いを感じることはある。
私は、住宅ローンを「いくら借りられるか」で考える文化には、少し危うさを見る。
本来は、
いかに破綻しない仕組みをつくるか。
ここから考えるべきではないか。
その延長線上に、ノンリコースという思想がある。
これは、借金を軽く見る議論ではない。
むしろ逆だ。
住宅ローンを重く見るからこそ、出口を考える。
深い議論である。
私は住宅購入者に、一度だけでも考えてほしい。
家を買うとは、所有権を得ることだけではない。
同時に、金融契約を背負うことでもある。
ならば、その契約は人を過度に壊すものであってよいのか。
問う価値はある。
私はそう思う。
この連載は、住宅ローンを夢としてではなく、金融契約として考え直す試みである。
その第一歩として、私はまず言いたい。
住宅ローンは、人生を拘束する契約であってはならない。
そこから、議論を始めたい。